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Author:takayou
名古屋在住の35歳男性です。ソウル、ソフトロック、ポップスの、ややマニアックな名盤を紹介します。やはり良い音楽は、CDやLPとして持っておきたいものですね。


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エレファントカシマシ その3

5 5
エレファントカシマシ、細海魚 他 (1992/04/08)
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1991年の5枚目。どうでも良いのですが、ジャケット写真がビートルズの「ラバーソウル」みたいです。
前作の「生活」で、真実を追い求めることを諦めて、退屈で平凡な「生活」と心中する悲愴な決意をした宮本氏でありましたが、まだ心の迷いが見られました。本作では、より諦念の強い曲が多いのが印象的です。
①「過ぎゆく日々」。かつての嵐のような日々はもはや過ぎ去り、「ひからびた情熱は、ただ過ぎるくらしの中へ消え」てしまいました。「この俺にも生活をどうか」と、地に足をつけて生きていこうと願うのです。そのために、「俺は働く、日々過ごすため、くらしゆくため」。②「シャララ」。この競争世界では、人は「ただただかけぬけにゃならぬ」のです。理由なんかなく、走ること自体が目的として。「恋をせにゃならぬ」「メシ食わにゃならぬ」、世の中にはなんと「ならぬ」の多いことか。そういったものに背を向けて生きていたいのだけれど、「生活」をするためにはそういったものから離れることができません。なんたる矛盾、「目的」ばかりがハバをきかせた社会です。③「無事なる男」。平凡なサラリーマン。「毎日いそいそと仕事へ出かけ 休日には家族と 心からくつろいだ」。この男がかつて言っていた言葉、「だってそうだろう。こんなもんじゃねえだろう この世の暮らしは、もっとなんだか、きっとなんだか、ありそうな気がしてるんだ」。しかし、その言葉は実際の生活の中で無残にもかき消されてしまいます。④「何も無き一夜」。生活に殉じようと決意した男が、静かな夜にふと我に帰る一瞬。「何も無き一夜 部屋の中 ねころびながら ひとりでうたっていた」。「働いた 疲れて寝た ああ 夢を追わなければならない」。夢を追うことさえも「せなならぬ」と化した現代社会。すべての束縛から解放されたいという気持ち。⑤「おれのともだち」。平凡な「生活」を生きようと決意したものの、そいつは恐ろしく退屈でヒマなものでした。「おお おれを襲い 平和な町を襲い来る。『たいくつ』よ お前こそ暮らしのともだち」。三島由紀夫にとって、戦争後の「平和」こそ唾棄するべき対象でした。何か平凡な平和を打ち破るものを求める欲求がどうしてもつきまといます。⑥「夕立をまってた」。ヒマで退屈な「生活」をもてあましてしまう男。どうしてよいのかわからない焦燥感。「やることが全部とってつけたよう」にしか感じられません。「何かやることはないのだろうか」と焦っても、「夕立をまってた」と言うように、今はひたすら「何か」を待つことしかできないのです。⑦「ひまつぶし人生」では、ひまつぶしにテレビを見たり、寝転んだり。世間の「我慢強い人」を眺めては、そんな光景を「エセ平和」とのたまいます。逆説的に「俺は大好きさ。エセ平和が大好き」とかなしく叫びます。⑨「曙光」。そんな生活は「ただ漠然と 時は過ぎた またぞろ一つ歳を重ねた」と無常に感じられるのみです。そんな中、曙の光に「今日も高き太陽が俺達を照らす」のを見て、「熱き血潮燃えていた」と感じる自分がいることに気がつくのです。彼はここでニーチェやハイデッガーが受けたような「存在」の天啓を受けたのかもしれません(そう言えばニーチェの著作にも「曙光」というものがあります)。
その後、宮本氏の苦悩が完全にふっきれたと言えるのが、名曲「悲しみの果て」だと言えるでしょう。


悲しみの果てに
何があるかなんて
俺は知らない
見たこともない
ただ あなたの顔が
浮かんで消えるだろう

涙の後には
笑いがあるはずさ
誰かが言ってた
本当なんだろう
いつもの俺を
笑っちまうんだろう

部屋を飾ろう
コーヒーを飲もう
花を飾ってくれよ
いつもの部屋に

悲しみの果てに
何があるかなんて…
悲しみの果ては
素晴らしい日々を
送っていこうぜ


「悲しみの果てに」見えるのは、「あなたの顔」だとしたら、今までに見られなかった「愛」や「笑い」だったのかもしれません。いつもの部屋に、部屋を飾りコーヒーを飲んで花を飾るという、目の前のささやかな幸せをかみしめようとする気持ち。それでもこれまで経験してきた、嵐のような悲しみの果てには、何があるかなんてわからない。でも、かつてのようにもうそれを追い求めようとはしない。「あなた」と「素晴らしい日々を送って」いくのみだ、という心境にやっとここで至ったのだと思います。



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エレファントカシマシ

浮世の夢 浮世の夢
エレファントカシマシ (1989/08/21)
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1989年の三枚目。この頃から、宮本氏の苦悩が始まります。
①の「夢のちまた」。「いい季節だ どこへ行こう 不忍池などたのしかろう…」と語られる「夢」。「明日こそは町へくりだそうか」と思うのですが、宮本はそれを結局は鼻で笑ってしまうのです。所詮明日になったら、そんなことを考えていたということも「忘れるだろう 忘れるだろう 今日一日のできごとなど」。そして、結局思考の堂々巡り、どうせ明日も同じことを考えているのです。所詮その程度の夢なのか。そんな風にして「春の一日が通り過ぎていく ああ今日も夢か幻か ああ 夢のちまた」。「夢のちまた」とは、夢の「ちまた」か「夢後また」か、それともダブルミーニングなのでしょうか。②の「うつら うつら」。生きていることがもう「うつら うつら」の状態です。「今日は何処へ行こうか」と言ってはみるものの、やはり「何をしよう浮世の夢」「ああひとり部屋の中で うつらうつら」するしかないのです。③の「上野の山」。桜の「花見なんぞのどこがいい 笑い顔さえひきつった」という俗物根性に対する軽蔑と、それでも「花など見たくはないんだけれど何やら少し さわぎたく 俺も花見に入れてくれ」という疎外を恐れる気持ちの葛藤に心が揺れています。こんな花見もまるで「短か夜の夢のよう」、「ああ明日からがんばろう」と最後にヤケクソになって叫ぶしかない労働者の悲しさです。⑤の「珍奇男」は宮本得意の自嘲ソングです。この曲はストーンズの「悪魔を憐れむ歌」と対をなしています。「私は珍奇男」、「寄生虫」、「私はばかでしょうか」と、自嘲を繰り返しますが、「誰にもうしろ指さされず ここまで苦労重ねてきた」自尊心も持ち合わせているのです。⑥の「浮雲男」では、タバコの煙を男の境遇に重ね合わせています。「ぷかり ぷかり 煙雲になる ぷかり ぷかり 浮雲男」、「煙が雲になるわけないよ みんなは笑う…」。どうして人間は自由になれないのでしょうか。⑦の「見果てぬ夢」。「我も彼らに負けまいと やさしい日本の四季を見て これも浮世とあきらめて すずしげに…」。現実と和解をしなければならないという想いが頭をよぎります。しょせん「人の思いは十人十色」なのだから、「この世に何があるのやら 見果てぬ夢」とやらを追い求めるよりも、目の前の「日本の四季」を直視しなければならないと、自分に言い聞かせているような悲痛な歌です。⑧の「月と歩いた」。そうは言っても、夜の散歩では永遠の象徴「月」はどこまでもついてきます。結局、永遠から離れることが出来ない自分…。そんな中、現実の象徴である自動車の騒音が突然の破調と共にやってきます。「ブーブーブードライブ楽しブーブーブー…」。やがてそれはすぐに通り過ぎ、もとの月と静寂が戻ってきて永遠なるものに思いを馳せる自分がいます。⑨の「星の夜」。星は遠すぎてもう見えなくなり、見えるのは浮世のビルの光だけ。暖かい家に帰り着き、風呂に入って口笛を吹くのは、もはや自分の歌ではなく「誰かの歌」。寒い冬の星月夜の「永遠」から、暖かい家の中の「現実」へと人は誰もが帰っていかなければならないのでしょうか。

エレファントカシマシ その2

生活 生活
エレファントカシマシ (1990/09/01)
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1990年の4枚目。
①の「男は行く」。現代社会においては、男の役割は「行かなければならぬ、勝たなければならぬ」と役割づけられています。この社会の要請を受けて、あるべき道をあきらめて孤独の道を進もうと決心をするのです。まさに「ビルを山に見たてるために」。それでもくじけそうになるために必死で「行け」と自らを奮い立たせるように叫ぶ宮本。真実の歌は「豚に真珠だ貴様らに 聞かせる歌などなくなった」として、封印してしまうのです。かつてフランスの天才詩人、アルチュール・ランボーが「地獄の季節」で、「俺たちの行方は『聖霊』だ。俺の言葉は神託だ。嘘も偽りもない。俺には解っている、ただ、解らせようにも外道の言葉しか知らないのだ、ああ、喋るまい」と言ったように。②の「凡人」。「俺は生活を追い求む、世間に食われ命をけずり、孤高のうちに死すより 俗なる我が世間に遊ぶものよ」という言葉は、このアルバムのタイトル「生活」に結びついています。孤高なるものを捨てて俗世間に生きるという悲痛な決意。「楽しげにああ人と会い、笑い、希望は失せたが死ねぬ身の せめては余命いくばくなりやと、老爺を気取り、ふとんで涙をしぼりて 町に出、笑い、凡人ああここに有り」と、凡人として生きていこうという決心。中原中也の最晩年の名詩「春日狂想」を思い起こさせる歌詞です。真実を追い求める心に疲れ果てて、ついに世間と和解しようと決意するに至った心境です。ただ、宮本の葛藤は名曲「悲しみの果て」まで、まだ続いていくのです。④の「偶成」。諦めの境地に至った彼にも、まだ疑問は残ります。平和な俗世間においても「この生活が なぜに我らを蝕む」のでしょうか。「時の力は我が命をいつか食いつくす」という焦燥感。まだ「何か足りない」と感じる心。「ドブの夕陽を見るために」「俺は生きてきた」という悲痛な叫び。でも、これで満足していいのだろうかという思い。まだ完全と世間と和解することはできません。⑤「遁生」。「これから先は死ぬるまで 表へ出ないでくらす人」と現実から逃げたくなる弱気があらわれます。葛藤に疲れ果てた気持ちは、もうひきこもることしかできません。「お前はなぜに生きている?」と問われて、「小さき花を見るために」という弱弱しい答えしかできないのです。真実はどこにでもあると、自分に言い聞かせているかのごとくに。⑥「月の夜」。もはや自分の居場所は昼ではなく、夜にしか見出すことが出来ません。月の光が「弱くやさしき光もて 我を」包む時が至福のときなのです。⑦「晩秋の一夜」。もう彼は疲れ果て、「あわれ ああ いまだに生き残る はかなき虫の鳴き声と共に」「ひとり動かず部屋に」いるのみです。自分を虫に仮託していることは明らかです。「日々のくらしに背中をつつかれて それでも生きようか 死ぬまでは」と、死ねないから生きるしかないという人生。もう彼には「亡骸」としての自分しか残っていないのでしょうか。

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